大人みたいな人

副園長だより

 少し前の出来事です。お昼寝後に、年長児さんの有志たちが、小さいお子さん達の昼寝布団を畳んで運び片付けてくれます。子どもの事ですから、運べる布団は1人で1つ。そうした折、その傍らで積み上がったたくさんの布団を、私も手伝おうと何気なくエイヤっとまとめて5つ程持ち上げ、運ぼうとしました。するとその様子をみていたあるお子さんが一言。「すごい! 先生、大人みたいだね!」と…。

 こういう子ども達の純朴な一言は時に深い示唆に富んでいます。そのお子さんにとって私は、「先生」ではあるけれども「大人」ではない認識であったということ。では大人ではないこのオジサン先生はいったい何者なのだというツッコミはさておき、この言葉は私にとって褒め言葉に感じられました。それは子ども達が恐らく私という存在を、自分達の対局にいる大人ではなく、どことなく自分に近い大人みたいな人という思いを持っていたのではないかと感じたからです。日々できるだけ子ども達に近い存在でありたいと思っている私には嬉しい表現に聞こえたのでした。

 ここで今回じっくり考えてみたいのは、「大人」とはいったい何なのか、「大人」になるとはどういう事なのかという点です。そしてそのことを通じ、私たちが大人になる過程で失ってしまった大切な何かに、目をこらしてみたいのです。

 「大人」とは辞書によると十分に成長した人を意味し、具体的には考え方や態度が相応に成熟し、かつ思慮分別がある存在を指します。母親の胎内で約10ヶ月過ごした後この世に生まれ出たとき、人は親をはじめ周囲の誰かの直接的な助けなくして生きていくことはできません。そしてその時々の適切な援助を得て、少しずつ確実に成長発達していきます。

 また周囲の大人達も、こうした援助をすることを通じて、人としてある種の成長をしていきます。他の動物は生まれてすぐ活動(行動)できるものが多いですが、人間はそうではない性質を持つことで、特有の親子時間を過ごしていきます。こうしたプロセスを通じて、子どもを中心に家族を作り、時間をかけて子育てをして、そこを基礎にしながら個として、そして社会的にも人類は進化してきました。

 ところで親子の育ちとは互恵関係にあるものですが、ともすると大人は子どもをか弱い存在として軽視してしまいがちです。その根っこにあるのは、大人は人生の経験者であり、子どもは人生におけるほんの初心者でしかないという少々見下したような認識です。実はこの捉え方をすることによって私たちが失っているものがあります。アメリカに禅を広めた、鈴木俊隆老師の言葉に次のような一説があります。

「初心者の心には可能性が溢れているが、
 熟達者の心にはそれがない。」

 iPhoneで有名なアップル社を創業した、かのスティーブ・ジョブズ氏も愛読していたという鈴木師の名著『禅マインド ビギナーズ・マインド』において、師は更に次のように続けます。

「初心は、それ自体で満ち足りているものだ。その状態を損ねてはならない。なにかを求める心が強くなりすぎると、心は満ち足りない状態に陥る。この状態になると、嘘をついてはいけない、倫理的に反することをしてはいけないなどといった、仏の教えに背いてしまう。
もし、あなたが初心を持ち、心が満たされた状態ならば、このような教えは自然と守られる。
つねに初心を保つことは難しいものだが、これこそ禅において最も大切なポイントである。」

 この禅の教えは、人生においても共通するのではないでしょうか。それはつまり次のような提案です。「今までの常識や先入観を一度手放して、初心に戻って考えてみましょう。経験や常識にとらわれなければ、今までにない見方や発想をすることができます。初心者だからこそできる、自由で可能性のある世界を思い起こしましょう。」

 こうした眼差しで幼児の姿を改めて眺めてみると、人の初心を宿している子どもたちの、人間としてある種完成されたありようが見えてきます。身近な人たちを信頼しきって、何だかいつも幸せそう。翻って私たち大人はどうでしょうか。山あり谷ありの人生の歩みの中で鈍ってしまったたくさんの感性の中に、もう一度取り戻したいものが見えてくるような気がします。

最後に写真家、星野道夫さんの言葉をご紹介いたします。

 「大人になって、私たちは子供時代をとても懐かしく思い出す。それはあの頃夢中になったさまざまな遊び、今は、もう消えてしまった原っぱ、幼なじみなのだろうか。きっとそれもあるかもしれない。が、おそらく一番懐かしいものは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もないただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。
 過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。それはきっと、ある種の素晴らしさと、それと同じくらいのつまらなさをも内包しているのだろう。
 まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。きっと、私たちにとって、どちらの時間も必要なのだ。さまざまな過去を悔い、さまざまな明日を思い悩みながら、あわただしい日常に追われてゆく時間もまた、否定することなく大切にしたい。けれども、大人になるにつれ、私たちはもうひとつの時間をあまりにも遠い記憶の彼方へ追いやっている。」

(『長い旅の途上』星野 道夫 著)

世の中、一見すると不平等な事が多いと感じられますが、どんな瞬間も、その時間は皆平等に与えられています。

「今」というかけがえのない瞬間瞬間を、丁寧に重ねて参りましょう。

副園長 飯島俊哲

(海禅寺新聞 2023年 夏号より一部加筆して転載)